2024/11/4

https://note.com/nebou_june/n/n37fe1265a179

これをはじめて読んだとき、4節の首を縦にぶんぶん振りながら読んでいたのだが、5節に入って首を捻らざるをえなかった。

トランスジェンダーの話に当事者以外が首を突っ込むのが得策でないのはわかっているが、でも1ユーザーとして、どうしても違和を覚えずにはいられなかったので、思うことを吐き出してみる。

断っておくと、俺はバリバリの男(ジェンダーの用語には詳しくないので、あえて雑な表現をさせてもらう)であり、紹介されていた参考文献は読んでいないどころか、トランスジェンダーについて体系的に学んだこともない。

以降、「筆者」といえば、↑の記事の筆者のことを指す。

ファンによる「消費」を批判?

この記事では4つの点が批判されていて、その中で筆者が最も重要視しているのが『ファンによる「消費」的な態度』である。

俺の理解で言えば、現実にもトランスジェンダーが存在するにもかかわらず、シスジェンダー中心の社会であることに無自覚で、その視座からのシナリオへの感想をSNSやYoutubeのコメント欄に書くことは、まさに瑞希が置かれているような他者化にほかならず、問題であるという。

言っていることはわかるのだが、違和を覚える。「消費」とは何なのだろうか?記事内に直接示されてはいない。ただ、消費に対する言及はある。3節冒頭から引用。

※※本節では、作中の描写から瑞希のジェンダーアイデンティティや割り当てられた性別を推測しますが、これは瑞希がフィクションのキャラクターであり、かつ、以降で述べるシナリオなどの評価に際して必要であるにもかかわらず公式が明言をしない(後述)限りにおいて行う行為です。現実の人間に対して行うことはもちろん許されませんし、フィクションのキャラクターであってもそれを娯楽として「消費する」ためにそのような行為を行うことは好ましくないことであると考えています(後述)。※※

筆者はこの前置きをしたうえで、瑞希のジェンダーアイデンティティを推測する。ということは、筆者はこの行為を「消費」ではないと考えている可能性が高い。一方で、シスジェンダー中心の社会に無批判であったり、瑞希の男性性に執着したコメントを書くことは「消費」だとして問題としている。

つまり、筆者のいう「消費」とは、“トランスジェンダーを、都合のよいように解釈(あるいは利用)すること” なのだろうか?あるいは、消費という語の意味を考えれば、 “コンテンツに対して深く考察することをせず、適当な感想を述べて、すぐ忘れてしまうこと” であろうか。

俺はそうは思わない。まず、作られたキャラクターのジェンダーアイディンティティを推測する行為に問題があるとすれば、その重みはジェンダーの知識や、その行為の危うさを理解しているかどうかで変わるものではないと考える。(その前に、『作者の人そこまで考えてないと思うよ』にぶち当たる危うさもある)

そして、シナリオを読んだユーザーが、その内容を3分で忘れてなんかエモいコメントを打って次のゲームに行こうが、ジェンダーを学ぶ立場から考察記事を書こうが、瑞希と自分を重ねて一晩のたうち回ろうが、コンテンツを受け取る態度はユーザーの自由であって、ユーザーの視座や受け取り方でそれらを区別すべきではない。

俺の考えで言えば、シナリオを受け取ることと、そレに付随する行為はすべて等しく「消費」と形容されるべきだ。

筆者もおそらく他のユーザーと同じようにこのシナリオと向きあい、その内容を褒め、また批判すべきところは批判して、瑞希のジェンダーを学術的見地から推測し、MVからは他者化の苦しみというモチーフを読み取り、記事という形にした。これも俺の考えでいえば、「消費」の一形態ではないかと思う。
それと同じようにシナリオについて、シスジェンダー中心の価値観なりに自分の言葉で考え、瑞希のジェンダーを推測し、コメントをし、声優の演技やMVの花から性のモチーフを読みとったユーザーだって、同じ「消費」にはかわりない。

他ユーザーの読み方への批判はあれど、それに「消費」というレッテルを貼って区別するのは不適切ではないかと考える。

「他者化される苦しみ」は、トランスジェンダー特有のものなのか?

記事の批判というよりも、トランスジェンダー論についての批判、あるいはただの人のふんどしを借りた俺のシナリオに対する感想文かもしれない。

「他者化」については詳細に論じられているので引用する。

(瑞希は) さまざまな形で周囲から「他者」(=「自分とは全く違う異質な人」)として扱われています。

Aが瑞希の「性別」を「冗談」として扱う態度が特徴的です。これは、Aにとっては瑞希に対して「分け隔てなく」接する、過度に「配慮」しないという「思いやり」であるかもしれませんが、こうした「茶化し」が瑞希のことを苦しめていることは過去のイベントストーリーでも描かれている通りです。

明日からも何もなかったように話してくれること、何もなかったように”思わせてくれる”ことが「どうしようもなく嫌だ」という瑞希の表明に対して、「そんな、こと……っ……」と言うに留まり、「そんなことない」と言い切ることができないでいます。こうした「優しさ」も、「他者化」の一形態であり、だからこそ瑞希はそれが耐えられなかったのでしょう。

「他者化」とは、異質な人として扱われること、と言って良いだろう。そして、茶化したり、優しくしたりといった「違う」態度を取ることそのものが「他者化」であり、瑞希はその苦しみを抱えている、という。

けれど俺は思う。それってジェンダーに限らず、ごく普通のことじゃないのか。

学校でも職場でも、社会は他者にあふれている。タバコで健康診断ひっかかった人がいれば、タバコなんてやめなよと笑い飛ばしたりするし、猛烈な阪神ファンの人がいれば、その人の周りで巨人が勝った試合の話はしないほうがいいし、インド人がいれば、昼飯はトンカツ屋には誘わないほうがいいかもしれない。奥さんに逃げられた人がいれば、なるべく普通に接しつつ、家庭の話題は出さないほうがいいだろう。癌で余命を宣告されて落ち込んでいる人がいれば、もうその人と迂闊に話はできないかもしれない。なんて言っていいかわからんからだ。

世の中「他者化」を考えるまでもなく、実際に他者ばっかりだ。自分以外は全員、みな自分にはわからない背景、文化、苦悩を抱えた他者と言ってもいい。他者に対する扱い方の正解なんてわからないから、その人なりに思いやるのである。その結果、それは茶化しであったり、腫れ物扱いであったり、あるいはつとめて変わらず接したり、もしくは離れたりする。ジェンダーだって同じだろう。

絵名は優しいから、瑞希の正体を知っても、他者である瑞希を思いやって、つとめて変わらずに接してくれるだろう。

でもその思いやりが発生することそのものが、瑞希は嫌なのだ。しかし、それはただの瑞希のワガママだと、瑞希は理解していたのではないか。

茶化されたくない、腫れ物扱いされたくない、それはまだ正当な要求として通るかもしれないが、絵名がつとめて変わらず接しようとしてくれるのに、それも嫌だ、まで行ってしまうと、もう瑞希の要求を満たす接し方は存在しない。 ((実際には瑞希の正体を知っている友人として杏がいるので話が複雑なのだが、Amiaを女だと思って疑わなかったニーゴにとってCOの影響がないことにはならないだろう、ということで進めさせて欲しい))

そうなることがわかっていたから、瑞希はニーゴで自分の正体を隠してきた。瑞希がいや、ナイトコードという場では、言う必要がなかったのだろう。他者であると知られなければ、他者として扱われていることもない。

しかし瑞希は、ニーゴのメンバーと親密になり、オフラインでも交流を重ねるうちに、自分の正体を明かせない苦しみと、明かしたことによる不可逆の変化を天秤にかけるようになって、答えが出ないまま、後者を取る決断をした。その結果として(男子生徒AによってCOされるというトラブルはあったものの)、瑞希はニーゴの皆との関係を変えてしまった苦しみと、親友の思いやりさえも受け取れない自分の気持ちと半強制的に向き合う羽目になった。瑞希は籠もるべくしてセカイに籠もったのである。

この観点で、「瑞希が瑞希自身を受け入れない限り解決しない」「絵名の対応に正解はなかった」という感想に俺は大いに同意する。瑞希自身がなにより変化を認めなければ解決しないし、絵名がどれだけ理想的な態度を取ったとしても瑞希がセカイに籠もらないルートは存在しなかったと思う(実際のシナリオの展開が既にほぼ理想であっただろう)

脱線してしまったが、俺の考えでは、他者化はなにもジェンダーに限ったことではなく、友人を他者として扱わなければいけない苦悩、自分が他者として扱われる苦悩は、程度の差こそあれ、だれもが抱える悩みである。シスジェンダーの読者がこの物語を読んで感想を述べることが、トランスジェンダーによる他者化の力学を肯定することになる、という筆者の主張は、あたらないのではないか。それどころか、シスジェンダーがトランスジェンダーのことについて知る、考えるきっかけを阻害することになるのではないか、と考えている。

他者化は普遍的なもので、読者は皆瑞希を通して他者化への苦悩に共感するから、瑞希の物語は(シスジェンダーの)読者にも刺さるのではないだろうか。

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